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15土井遺跡~21慶運寺跡
15 土井遺跡(どいいせき)
所在地 | 赤磐市可真上 |
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時代 | 弥生~奈良時代 |
調査年 | 2000~2003年 |
調査主体 | 岡山県古代吉備文化財センター |
参考文献 | 「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 191」 2005 岡山県教育委員会 |
概要
遺跡は標高50~80mの丘陵上で見つかりました。弥生時代中期から後期では、住居、建物、土壙が検出されました。
古墳時代では6世紀後半の県下初となる埴輪窯を2基発見し、このうちの1基は陶棺も焼いていました。また、埴輪の集積場所では、「盾持ち人」とよばれる兵士を表した人物埴輪が見つかりました。このほか、この周辺で鉄滓が出土することから、鉄器の生産も行っていた可能性があります。
奈良時代でも須恵器や瓦を焼いていた窯1基を確認していることから、この場所が長らく色々な器物の生産工房であったことを示しています。あわせて、字名「可真(かま)」の由来を考える上でも、興味深い遺跡です。
陶棺…粘土で作り焼きあげられた棺。
▲古墳時代の埴輪窯2基と埴輪の集積場所
▲「盾持ち人」の出土状況
▲奈良時代の須恵器・瓦窯
岡山県古代吉備文化財センター写真提供
16 猿喰池製鉄遺跡(さるはみいけせいてついせき)
所在地 | 赤磐市奧吉原 |
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時代 | 古墳時代 |
調査年 | 2000年 |
調査主体 | 熊山町教育委員会 |
参考文献 | 「猿喰池製鉄遺跡」 2004 岡山県熊山町教育委員会 |
概要
遺跡は猿喰池北岸の斜面にあり、周辺は鉄滓や鉄屑が多く散らばっていました。調査では古墳時代後期のうち、時期が異なる5基の製鉄炉を発見しました。
ただし、検出できたのは炉の下面に掘られた防温や防湿のための地下構造や鉄滓や炉壁の破片を外に出するための溝や覆屋の柱穴であり、炉自体は製鉄を行う度に毎回作り替えられるので見つかりませんでした。
製鉄炉の地下構造はいずれも方形であり、1辺が約1m前後をはかるものが多いようです。深さは深いもので60㎝ありますが、時代が新しくなるにつれて浅くなっていくようです。製鉄の原料は分析により鉄鉱石を用いていることがわかりました。
▲1号炉の地下構造

17 馬屋遺跡(まやいせき)
所在地 | 赤磐市馬屋 |
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時代 | 奈良~室町時代 |
調査年 | 1991~1992年 |
調査主体 | 岡山県古代吉備文化財センター |
参考文献 | 「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 99」 1995 岡山県教育委員会 |
概要
遺跡は丘陵の裾部から東に広がる平野で見つかりました。遺跡の周辺には備前国分寺跡のほか、備前国分尼寺跡や古代山陽道の高月駅などの推定地があり、このあたりは、当時の政治と文化の中心地であったといえます。
このような状況から、調査で確認された奈良時代の多くの建物は、公的な役割をもつ施設であった可能性が考えられています。また、胞衣容器と考えられる土器を地面に埋めた穴が確認され、中から和同開珎が5枚出土しました。
一方、平安時代以降に見つかった遺構は、しだいに公的な施設の性格が薄れて、一般的な集落に変わっていったと思われます。
▲奈良時代の建物群

岡山県古代吉備文化財センター写真提供
18 斎富遺跡(さいとみいせき)
所在地 | 赤磐市斎富 |
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時代 | 弥生~室町時代 |
調査年 | 1991~1992年 |
調査主体 | 岡山県古代吉備文化財センター |
参考文献 | 「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 105」 1996 岡山県教育委員会 |
概要
遺跡は丘陵の裾部から南東に広がる平野で見つかりました。集落が営まれるのは弥生時代後期からで、古墳時代の前半もほぼ同じ規模の集落が継続したようです。
一方、古墳時代の後半になると、住居の著しい増加が確認できました。住居内からは陶質土器や軟質系土器が出土しており、朝鮮半島からの人の移動や移住が想定されます。
奈良時代は二重の溝で区画された1町四方の中に多くの建物が確認されたことから、公的な施設があった可能性があります。平安時代は墓地となり、室町時代の後半に再び集落が営まれますが、江戸時代には耕作地へ変化しました。
陶質土器…須恵器のはじまりとなる硬質で青灰色の土器。食べ物を盛るための杯や高杯、貯蔵用の甕などが作られた。
軟質系土器…赤褐色の土器で、煮炊き用の鍋や蒸し器用の甑などが作られた。土器製作にはロクロやたたき技法などの新しい技術が見られる。
▲遺跡の全景

岡山県古代吉備文化財センター写真提供
19 来光寺跡(らいこうじあと)
所在地 | 赤磐市光木 |
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時代 | 鎌倉~江戸時代 |
調査年 | 1998~1999年 |
調査主体 | 岡山県古代吉備文化財センター |
参考文献 | 「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 199」 2006 岡山県教育委員会 |
概要
寺跡は丘陵の北西斜面で見つかりました。調査では江戸時代から現代まで祀られた釈迦堂の下層から、2基の基壇と石組の桝や通路が、鎌倉時代から室町時代前期の瓦だまりとともに検出されました。
このうち、1辺10mの基壇の上では、仏堂の中心と思われる建物が確認されました。また、この基壇の南東側では、東西約9.5m、南北8.2mの基壇の上に建物が見つかりました。
これらの基壇から東側に延びる通路の先には墓地が営まれ、北側の平らな面には寺院に付属していた鍛冶工房があったと考えられます。県下においても、このように中世寺院の実態が明らかとなった好例であるといえます。
基壇…神社や寺院などの建物の基部に築かれている石造や土造の壇。
鍛冶…鉄の素材などを熱して打ち鍛えて、種々の器物を作る作業。
▲寺跡の全景
▲寺跡の軒瓦
岡山県古代吉備文化財センター写真提供
20 備前周匝茶臼山城址(びぜんすさいちゃうすやまじょうあと)
所在地 | 赤磐市周匝 |
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時代 | 室町~安土桃山時代 |
調査年 | 1985年 |
調査主体 | 吉井町教育委員会 |
参考文献 | 「備前周匝茶臼山城址発掘調査報告書」 1990 岡山県吉井町教育委員会 |
概要
城は標高約170mの茶臼山の尾根上に築かれました。発掘された主郭は尾根の先端部に設けられ、南北55m、東西38mの広さをもった不整円形を呈します。
縄張(なわばり)を見ると、尾根上に郭面が2面設けられ、尾根鞍部に堀切、南斜面に竪堀を備えており、北西側には大仙山城を築いています。城全体は南側の防御意識が強く、これは宇喜多直家の北侵に対抗したものと思われます。
調査では、柱穴・溝・土壙や地下式の居住施設と思われる大形竪穴遺構が見つかりました。遺物は中国産の陶磁器や備前焼・常滑焼などの焼物、砥石・臼・硯の石製品、鏃・刀子・小札(こざね)の鉄製品、鍔(つば)・銭貨・こうがいの銅製品のほか、瓦や羽口(はぐち)などが出土しました。築・廃城の時期は16世紀後半と考えられます。現在は「城山公園」として整備されています。
主郭…山城や砦などの中心区画。
縄張…山城や砦の設計・計画。
堀切…尾根を仕切るように造られた堀。
竪堀…斜面に対して縦方向に造られた堀。
小札…甲冑などを作るために用いられた、小孔が空いている長方形状の鉄板。
こうがい…髪を整えるため用いられた、箸に似た細長い道具。
羽口…炉の下側などに設けられた、ふいごなどの送風装置から風を送るための送風口。
▲主郭の全景
▲大形竪穴遺構の近景
21 慶運寺跡(けいうんじあと)
所在地 | 赤磐市可真上 |
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時代 | 室町~江戸時代 |
調査年 | 2000~2001年 |
調査主体 | 岡山県古代吉備文化財センター |
参考文献 | 「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 191」 2005 岡山県教育委員会 |
概要
寺跡は丘陵の南裾で見つかりました。調査では、室町時代から江戸時代の建物・柵・井戸・溝・土壙・墓が検出されました。
墓地は、五輪塔や宝篋印塔の石材が数多く散らばった状況で確認されました。これらを取り除いた下層からは、骨蔵器として用いられた室町時代の備前焼の壺30点と雀口の壺2点が出土しました。壺のなかには、当時埋葬されたままの状態の火葬骨が発見されました。
池田光政の日蓮宗の不受不施派弾圧によって、寛文6年(1666)以降に廃寺となった寺院のなかに、「慶運寺」が池田家文庫に認められますが、この寺跡がそれに当たると考えられます。
五輪塔…地・水・火・風・空の五大(万物をつくる五つの要素)を、5個の石材にかたどって積み上げた塔。
宝篋印塔…「宝篋印陀羅尼」の経文を納めた塔で、後に供養塔・墓碑塔として建てられた。
不受不施派…日蓮宗の一派。文禄4年(1595)京都妙覚寺の日奥が創始。法華経の信者以外には施しを受けず、施さぬ主義で、江戸時代は禁制となる。
▲寺跡の全景
▲中世墓の検出状況
岡山県古代吉備文化財センター写真提供